連載

共済と保険の違い、歴史

 共済の誕生の歴史をたどるとともに、そもそも共済と保険は何がどう違うのか、その本質を掘り下げてみたものである。

  1. 保険と共済の萌芽
  2. 「共済五百名社」の誕生、生命保険との違い
  3. 「共済」のルーツを探る
  4. 産業組合による「保険会社」の買収
  5. InsuranceかReliefか~保険事業が認められなかった協同組合

1 保険と共済の萌芽

 明治維新前後から、わが国でもようやくヨーロッパの保険や協同組合のことを扱ったいくつかの書物が翻訳されるようになる。そもそも日本語にない言葉に当てはめるだから、訳した先人たちの苦労がしのばれよう。
 ヨーロッパの保険制度を最初に紹介したのは福沢諭吉である。1867(慶応3)年に発刊した「西洋事情(附録)」の「災難請け合いのことインシュアランス」の項で、insuranceを「災難請け合い」と訳し、火災・海上・生命の三種類の請合があるとしている。日本語にぴったりの訳だ。
 「保険」という言葉が登場するのは2年後の1869(明治2)年、山東一郎編「新塾月誌」第二号である。「インシュレンスを支那語に訳して保険または担保と称する」と。インシュレンスにはフハヤ・ライフ・マリンの三種があり、「宅担保・命担保・船担保、或は火災保険、海上保険と名づく」と書かれている。保険はもともと「要害の地に立てこもる」の意味だが、そこから転じて「危険の無いことを保証すること」に中国で使われはじめたようだ。ところが不思議なことに、「生命保険」という呼称だけが日本語に翻訳されていないのだ。おそらく当時の日本人の倫理観には、人の「命」をもうけの対象にする発想がなかったからではあるまいか。
 海難事故による積み荷の損害を負担し合うしくみは日本でも古くから存在したが、海上保険会社が最初に設立されたのは明治12年である。西南戦争で軍需物資の海上輸送を一手に引き受けた三菱の岩崎弥太郎が、海難事故を保証する保険会社の経営を企画したのだが、日本資本主義の父といわれた渋沢栄一にたしなめられる。船会社が保険会社を経営するのは利益相反だ、と。三菱は資本参加するだけにして発足したのが、東京海上保険会社である。国際的には東京マリンと呼ばれた。また、火災保険は明治20年の東京火災保険会社が初めてである。
 では、生命保険はいつ生まれたのであろうか。明治14年に、生命表をもとに保険数理を用いたわが国初の生命保険会社、明治生命保険会社が設立されている。 ところがなんと、生命保険会社に先がけてわが国では「共済」がスタートしているのである。そのいきさつは次号で(2016.7)

2 「共済五百名社」の誕生、生命保険との違い

 1880(明治13)年1月、後に安田銀行や前号で述べた東京火災保険会社をはじめ多くの企業を育てた安田善次郎が、江戸幕府の外国奉行も務めた成島柳北らとともに「共済五百名社」を設立した。メンバーを500人に限定し一人2円を徴収、死亡した場合遺族に1千円の弔慰金を支払う。その都度2円を徴収するというしくみみである。それとは別に6円徴収し、その3千円の運用益で事務費を賄ったのである。そのため、この仕組みは「賦課式」の生命保険と呼ばれている。
 当時の2円は現在の価格に換算すると2~3万円程度と推定され、一人亡くなるごとに2円を拠出するわけで、庶民に手の届く内容ではなかった。実際メンバーになれたのは実業家、言論界、官僚など上層階級に属する人たちであった。その後、保険数理を用いたわが国初の生命保険会社、明治生命保険会社が設立されたことは前回述べた。共済五百名社も後に安田生命保険会社となった。両社は合併して現在は明治安田生命保険会社となっている。
 ではなぜ安田善次郎が生命保険会社ではなく、共済五百名社を設立したのだろうか、その真相はよく分からない。あるいは、人の命を保険という商売の種にすることにためらいがあったのかも知れない。けれども、注目しなければならないのは、「共済五百名社」への加入は、15歳~50歳の人で、一人一律2円。加入に当たって医師の診査等は要求しないという相互扶助を目的に設立された事実である。これは、生命表をもとに保険数理を用いた生命保険との明快な違いである。生命保険では保険料が15歳~50歳まで同一ということはありえないし、病歴によって保険料に差が出てくる場合があるからだ。つまり、共済と保険とでは、思想・哲学が根本的に異なっている。共助を体現するしくみそのものである「共済」こそが、保険に勝る王道であることに、われわれはもっと自信と誇りを持っていいと思うのだ。
 ところで、「共済」という言葉は、中国では紀元前の春秋時代に「ともに渡る」「ともにすくい合う」という意味で用いられていたが、日本ではあまり使われていなかったようである。明治12年には、原初的生協ともいうべき共立商社、大阪共立商店が設立された。「共立」はともどもに協力して起すという意味の古い日本語だが、「共済」という言葉が明治十三年以前に使われていた事例は、知る限り見当たらない。(2016.8一部修正)

3 「共済」のルーツを探る

 一定の限られた範囲の人々の相互扶助という意味である「共済」という言葉は、共済五百名社の発足以降、明治時代の後半から広く使われるようになる。
 1904(明治37)年、呉海軍工廠の職工のための病院が作られたのを皮切りに、横須賀・舞鶴の海軍工廠でも病院が設立されたが、「共済病院」と名付けられた。明治40年には鉄道庁現業職員、以降印刷局・逓信局・造幣局・海軍・陸軍などで現在の年金や健康保険組合的な相互扶助の組織が「共済組合」の名前で作られている。1922(大正11)年、健康保険法が制定されると、これらの共済組合は健康保険と同一に認められた。今日、公務員の年金や健康保険が共済組合と呼ばれているのにはそういう歴史がある。民間でも、明治41年に小城共済銀行(現佐賀銀行)が、大正4年倉敷紡績に「倉敷共済組合」(後に共存組合さらに交友会と名称変更)が誕生している。
 ところで、戦前のわが国の協同組合(産業組合)は大正13年の大会で「生命保険事業開始の件」を決議している。「信用・購買・販売・利用の事業だけでは都市資本主義の搾取から農業経済を守り抜くことは難しい。それには自己生産をせねばならない。農業生産力を増大するには土地改良も進める必要がある。それには多額の長期資金がなければならない」と。相互扶助と同時に長期的な「資金獲得」をも目論んだのであったのだ。けれども、これは保険業界の反対で頓挫する。何よりも「保険事業は株式会社または相互会社に非ざれば之を営むことを得ず」という保険業法第3条に定められている事業主体の制限を突破することができなかったからである。それでも産業組合の保険業開始への挑戦は続くことになる。以下次号に。(2016.10一部修正)

4 産業組合による「保険会社」の買収

 わが国最初の協同組合である産業組合の全国組織は、1905(明治38)年に「産業組合中央会」として創設された。当初から「保険事業は産業組合の相互扶助の精神からいっても、最も相応しい事業である」として、産業組合による保険事業経営の必要性が強調されていたが、ようやく1924(大正13)年の全国産業組合大会で生命保険と火災保険事業の実施が決議され、調査・研究が始まった。
 その協同組合保険の理論づけを行ったのは賀川豊彦である。1940(昭和15)年には「日本協同組合保険論」を執筆している。「協同組合が保険事業に手を出してはならないという謬見を持つ人がおることを憂え」、あえて出版したことを序文で述べている。
 しかし、産業組合による保険事業の開始は、前号でも述べたように、会社・相互会社以外は保険業を営めないという保険業法の壁に加えて、保険業界とりわけ生命保険業界の反対が強く、幾度も頓挫してしまう。そこで、損害保険分野に限定することにし、当面産業組合中央会の役員が個人名義で既存の損害保険会社を買収・合併させて、経営権を得る方法がとられた。こうして、紆余曲折を経て戦時下の昭和17年7月に「共栄火災海上保険株式会社」が誕生したのである。社名の「共栄」は産業組合運動の標語である「共存同栄」から採られ、株主は個人であるけれど実質は産業組合の所有であり、相互扶助を原理とする協同組合精神を理念とし、組合員の参加による民主的運営を標榜したのであった。
 昭和19年農業団体法が公布され、産業組合中央会は他の農業団体と共に中央農業会に統合改編されることになった。そのため、「共栄火災」も農業団体との関係がいっそう緊密になった。共栄火災が今日もなお農業協同組合と濃密な関係にあるのは、両者が産業組合をルーツとする戦前からの歴史がその背景にある。
 戦後、わが国の協同組合陣営はただちに念願の保険業参入に向けて動き出す。日本を占領したGHQ(連合国総司令部)も、それに理解を示すような動きを見せたのだが、目指した協同組合による「保険」は最終的に「共済」になってしまったのである。つづく。(2016.11)

5 InsuranceかReliefか~保険事業が認められなかった協同組合

 戦後直後の1945(昭和20)年11月に結成された日本協同組合同盟(日本生協連の前身)の会長になった賀川豊彦は、「保険はその本質上、協同組合化されるべきもの」なのに「途中からその純真な隣人愛的な発生と動機が失われて資本主義化」しまったことを憂い「協同組合がもつ道徳的自粛力、非搾取・共愛互助的精神こそが保険の根本精神と一致するのだ」と、協同組合の保険業参入を主張する。自らも委員になった昭和21年3月の第一次金融制度調査会でこうした主張が容れられ、「現行保険業法に規定する保険業の形態に株式会社・相互会社の外、協同組合組織のものを認める」という試案が示されたのである。これを受けて大蔵省は、いったんは「協同組合保険は協同組合運動の一環。共栄火災保険会社(前号参照)の協同組合組織への移行を認める」と、協同組合に保険業を認める見解を示したのだった。
 ところが、翌年の第二次調査会では、「協同組合保険」に関する条項はすべて削除されてしまう。ちょうど農業協同組合法制定の議論が本格化した時期と重なっている。日本を占領したGHQ天然資源局は、農協法上「組合員の財産の損害を保険する事業(business of insuring)」を認め、農林水産省はそれをmutual insuranceと訳したのだが、これに対して保険業界と大蔵省、さらにはGHQ経済科学局までが強く反対。最終的にはmutual reliefと、保険ではなく共済とされたのであった。そして、農協法(昭和22年11月)や翌年7月の消費生活協同組合法では、「組合員の生活の共済を図る事業」として、組合員どうしの助け合い事業に限定されてしまうことになる。こうして、農水省・大蔵省・保険業界・GHQ内部の綱引きの結果、協同組合保険はついに日の目を見ることができなかったのである。
 そして、「共済事業は、保険業とは異なり、厳密な計数に基づくものではなく、吉凶禍福に対する祝金・弔慰金・見舞金又は手当金の程度で、掛金及び共済金の最高限度は、厚生大臣が定めることができる」ことになった。長い間、共済金が保険金に比べて低い水準に留め置かれることになったのには、こうした背景が横たわっている。(2016.12)

高橋 均(たかはしひとし)

労働者福祉中央協議会(中央労福協) 講師団講師
明治大学労働教育メディア研究センター客員研究員
一般社団法人日本ワークルール検定協会副会長

1947年 京都市生まれ
1974年 読売旅行労働組合結成に参加。書記長、委員長
1980年 観光労連書記長、委員長(現サービス連合)
1996年 連合本部 組織調整局長
1998年 同 総合組織局長
2003年 同 副事務局長
2007年 労働者福祉中央協議会(中央労福協)事務局長
    現在 同講師団講師

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