連載

戦前・戦後直後の労働組合と生協~財政を中心に

 労働争議は、大正年間から昭和初期にかけて全国各地で多発し、その詳細な記録は多く残されているのだが、争議に要した費用についての記録はあまり見当たらない。そこで、ここでは争議費用と解決金の分配など、お金にまつわるものを取り上げてみた。
また、戦後直後の労働組合結成にGHQや会社がどのように関わったのか、さらに生協誕生時のいきさつや財源確保に焦点を当ててまとめたのが、以下の小論である。

  1. 労働運動と組合財政①~井堀繁雄の遺したもの
  2. 労働運動と組合財政②~松岡駒吉の決断
  3. 憲法よりも早く制定された労働組合法①~敗戦で続々と結成された自主的な労働組合
  4. GHQの後押しもあり、手探りでの労働組合作り~憲法よりも先に制定された労働組合法②
  5. 経営者も一役買った労働組合結成~憲法よりも先に制定された労働組合法③
  6. 借金でスタートした戦後直後の生協の再興
  7. 産業報国会の財産をただで生協に譲渡した中林貞男
  8. 埼玉労金の本店は産業報国会の会館だった

1 労働運動と組合財政①~井堀繁雄の遺したもの

 1951(昭和26)年に埼玉労金を創設した初代理事長の井堀繁雄は、19歳で1921(大正10)年の川﨑・三菱造船所大争議に参加、検挙され6か月の実刑判決を受けて以来、一貫して労働運動に身を投じてきた活動家であった。昭和2年、総同盟埼玉支部連合会結成大会で書記長に選出されてからは、主として川口を拠点に、労働運動、消費組合(労働者生協)運動、農民運動を指導してきたのである。キューポラの町として知られた川口には、最盛期に700を越える鋳物工場があったが、大正15年から昭和9年までに起きた争議件数は200件以上にものぼったという。
 その間の川口鋳物業の労働事情、労働組合の事業・運動、労働争議の記録は、井堀が昭和九年に編集発刊した千ページを超える「川口鋳物業に於ける労働運動十年史(上・下)」で知ることができる。なかでも興味深いのは、当時の労働組合費がどのように使われていたのか、労働争議解決時に会社から受け取った解雇手当や解決金(金一封)の額と配分先、争議に際してお金や物資を寄付してくれた個人名、争議に要した費用の収支明細などが詳細に記録されていることだ。
 昭和7年2月から80数日間の争議で11名の解雇者を出した伊藤工場の場合は、一人250円の解雇手当の他に争議見舞金3,570円を受け取って解決した。争議中にかかった家賃、蒲団代、25俵の米代、薪炭・電気料など総額1,500円余りの費用は、寄付金、積立金・総同盟本部からの借入金、行商利益金などでまかなった。不足分約550円は争議見舞金から補てんし、残り3,000円余が争議中の日給分配金として組合員に配分されている。
 解雇者を出さずに勝利した昭和2年の関口製作所の争議では、会社から1,200円の金一封を受け取った。争議団積立金や260円も集まった寄付金でも足りなかった争議費用132円は、金一封から補てん。残り1,061円は争議中の日給半日分として組合員に配分された。
 実は、井堀がこのような詳細な争議収支明細書を遺したのには理由がある。それは、大正年間から昭和初期における労働組合や労働争議の財政処理をめぐる苦い経験があったからだった。以下次号(2018.5)

2 労働運動と組合財政②~松岡駒吉の決断

 争議解決金をめぐる苦い経験とはこういうことである。
戦前、労働組合法を制定する動きは資本側の強い抵抗で、何度も頓挫している。その際、資本側は解決金(金一封)の不透明さを指摘したのだ。「労働運動者と申しまする者が、金一封を授受し…大部分が此の運動家の懐に入るのでありまして・・・事業家も非常に迷惑し・・・労働者も非常に慨嘆して居ります」と。
 そうした事実があったことを、戦前からの総同盟の活動家だった天池清次が証言している。「金一封はたいがいそのストライキを指導した人が賃金みたいに受け取るわけですね。組合がもらうけど、もらった組合もお世話になった指導者にあげましょうという習わしがあった」。もちろん、運動家たちは無私の人々だったし、組合費が十分に集まらない時代にはやむを得ない面があったのだけれど、こうした習慣は次第に労働者から疑問視され始めていく。また、総同盟から分裂した評議会も「解雇手当交渉請負業者」として批判していたのだった。
 天池はさらに言う。「それが不健全だと、労働組合の専従者に給料をきちんと出すようにしたのが松岡駒吉さんです。組合が金一封をその人に出すというのなら、本部に納めなさい」。こうして、総同盟の会計責任者になった松岡は、専従者を本部の有給役員に改めたのであった。
 松岡は、1927(昭和2)年秋から7か月にわたり自らが指導した野田醤油の大争議の顛末を、詳細な収支決算書とともに遺している。組合は38万円の解雇手当の外に7万円の争議費を受け取ったが、争議費用は14万1千円余も要した。受け取った争議費用では足りず、3万6千円余の寄付金、借入金、積立金などでまかなった。「会社から受け取った45万円の分配について、世間兎角の批評があるようだが、一點指されることなきよう公平を期し…これを印刷に附して各所に配布した」。こうして、社会の耳目を集めた野田大争議は一切の不透明さもなく終結したのである。
 松岡の指導宜しきを得て、前回述べた埼玉労働金庫初代理事長の井堀繁雄が、川口鋳物工場における10年間の争議の実態を組合財政も含めて詳細に書き遺したのには、そんな事情があったからだった。(2018.6)

3 憲法よりも早く制定された労働組合法その①
~敗戦で続々と結成された自主的な労働組合

 戦後、日本を占領した連合国軍総司令部(GHQ)は、「日本国政府ハ日本国民ノ間ニ於ケル民主主義傾向ノ復活強化ニ対スル一切ノ障碍ヲ除去スベシ」というポスダム宣言を受けて、1945(昭和20)年10月11日に、労働組合結成の奨励、女性参政権付与、学校教育の自由化、財閥解体などを日本政府に命じた。そこで日本政府は10月27日、厚生省に34名の委員からなる「労務法制審議委員会」を設置して「労働組合法」制定のための検討を始めたのである。
 しかし戦争中、解散もしくは産業報国会への転換を余儀なくされていた労働組合は、8月15日の敗戦を機に、労働組合法の制定を待つまでもなく各地で再建にとりかかる。
 早くも10月5日に「全日本海員組合」が結成され、10日には松岡駒吉ら戦前の総同盟のメンバーを中心に、さまざまな潮流の活動家たちが加わって「労働組合総同盟」の中央準備会を立ち上げた。11日には、埼玉労金の初代理事長で戦前からの活動家であった井堀繁雄によって、埼玉金属労働組合が再建されている。11月20日には東京交通労働組合が、23日には広島の日立造船因島工場で「総同盟中国造船労働組合因島支部」が結成された。戦前の因島労組育ての親、金正米吉(後の総同盟会長、関西労金初代理事長)が敗戦直後の9月に因島を訪れ、旧組合幹部を集めて労働組合結成を促したことが機縁になったことが記録に残されている。12月14日、川崎の東芝・堀川町工場で「堀川町従業員組合」結成大会が開かれた。「全日本教員組合」も12月1日に結成された。日本教職員組合(日教組:昭和23年6月8日)の母体となった組合だ。全国組織の労働組合は海員組合に次いで二番目であった。各地で結成された労働組合はラジオや新聞で報道され、世間の注目を浴びたという。
 労組法が成立する以前に、労働者が自主的に結成した労働組合数は、昭和20年末には、509組合380,677人を数えたのである。わずか3か月間の出来事であった。
 そして、労働組合法は暮れも押し詰まった12月22日の帝国議会で成立する。憲法よりも早く制定されたのだった。(2018.7)

4 GHQの後押しもあり、手探りでの労働組合作り
~憲法よりも先に制定された労働組合法その②

 労働組合法制定のための「労務法制審議委員会」の労働側委員には戦前からの活動家、松岡駒吉や西尾末広ら5名が加わった。委員長には貴族院議員で日本交通公社会長の大蔵公望が指名されている。委員会は1か月で5回開かれ、集中した議論を経て、敗戦からわずか3ヶ月後の1945(昭和20)年12月22日の帝国議会で「労働組合法」が成立(施行は翌年3月1日)したのである。団結権・団体交渉権・争議権の保障を盛り込んだ労働組合法は、何と、憲法や労働基準法に先んじて制定されたのであった。
 労組法制定をきっかけに全国各地で雨後の筍のように労働組合が結成されていく。昭和21年末には、1万7千組合、490万人と驚異的に伸長したのであった。もちろん、労組法が制定される以前から、労働者が自主的に結成した労働組合が数多くあった事実は前号で述べた通りだが、労組法に後押しされて結成された労働組合も多かったこともまた事実であった。
 とくに、GHQが労働組合結成を奨励していることが明らかになると、GHQに接収され、高級将官用の宿舎になった「第一ホテル」や「帝国ホテル」でも手探りで労働組合作りが進められた。第一ホテルは、昭和21年5月6日に日本で最初に労働組合を結成したホテルである。続いて、8月1日には帝国ホテル従業員組合が結成された。当初の労組法では、結成後一週間以内に届出を義務付けられていたのだが、8月5日、東京都に提出した帝国ホテル従業員組合の結成届の文書が残されている。「昭和二十一年八月一日労働組合法ニ依リ帝国ホテル従業員組合ヲ結成致候條別冊ノ通リ規約貮部並ニ役員名簿貮通添付此段及御届候也」。候文でしたためた届出文書を作成した労働組合役員の緊張した面持ちが今でも伝わってくるようだ。11月には同じくGHQに接収され、マッカーサー司令官も宿泊した横浜のニューグランドホテルでも労働組合が結成された。
 GHQの指令で制定された労組法、それに後押しされて結成された労働組合だから、「ポツダム組合」と揶揄された労働組合ではあるが、今ではホテル産業の中核的な労働組合として活躍している。(2018.8)

5 経営者も一役買った労働組合結成
~憲法よりも先に制定された労働組合法その③

 労働組合法制定のための「労務法制審議委員会」の委員長で交通公社の会長だった大蔵公望は、自分の会社に組合がないのでは示しがつかないと、社員に組合結成を促した。さっそく秘書課長を中心に組合づくりを始めたものの、会社の真意を測りかねた準備委員は法制定直後の1945(昭和20)年12月23日に、会社あてに「労働組合を結成してよろしいか」とお伺い書を提出したのだった。一週間後、ご丁寧に会社から「許可する」という文書が発出されている。安心した従業員は、2か月後の昭和21年2月25日、日本交通公社従業員組合を結成した。結成大会には、会長の大蔵や労務法制審議委員会の末弘厳太郎東大教授も出席して祝意を述べている。
 同年4月20日、全国の日本通運で働く850名の労働者が、東京で「全日通労働組合」を結成した際のいきさつも興味深い。労働組合結成には経営者もひと役買っていたというのだ。戦後直後、GHQによる労働組合結成の奨励、財閥解体、戦争犯罪人の処罰、戦争協力者の摘発の前に、経営者の多くは戦々恐々していたのだった。戦時中あった「産業報国会」などでの彼らの行動が、戦争協力と見なされ処罰の対象にされはしないかという惧れである。そのため、自社に労働組合が結成されれば、占領軍に協力しているとみられるし、世間に対しても民主化の表看板になるという計算からだった。
 また、2月9日、戦前の大争議を経験した野田醤油(現キッコーマン)でも従業員組合が結成された。会社も間接的に協力して、工員だけでなく課長・工場長も加わった組合だった。じっさい結成大会には、社長だけではなく、町長、警察署長までもが来賓として招かれた。工員の危惧を反映してか、結成大会では「御用団体」にならないことをわざわざ決議している。
 会社の思惑がどうあれ、労働者の湧き上がる思いが根底にあったからこそ、労働組合があらゆる産業・企業、各地域で結成されたのであった。これらの組合は現在もそれぞれの産業の中心組織として頑張っている。こうして、昭和24年には組織率が最大の55%を超えたのであった。この項終わり。(2018.9)

6 借金でスタートした戦後直後の生協の再興

 今年7月、四谷駅前にある日本生協連の資料室で、生協が再建された敗戦直後の資料を閲覧していた時、偶然にも賀川豊彦が署名した二通の赤茶けた契約書の原本を発見。驚きと感激で、一瞬手が震えてしまった。
 日中戦争が始まると、労働者生協や大学生協は警察の介入と弾圧で解散させられ、平和主義者の賀川豊彦でさえ反戦活動容疑で憲兵隊に検束されてしまう。また、戦争遂行のため、米・砂糖・食用油などの主要物資が配給制になり、市民生協のほとんどは事業を停止せざるを得なかった。そのため、戦後まで生き延びた生協はわずかだったといわれている。
 戦争が終わると、生協陣営も統一して立ち上がる。イデオロギー的な対立から運動の統一が図れなかった戦前の経験を反省し、さまざまな潮流のグループが一緒になって、1945(昭和20)年11月18日、賀川豊彦を会長に日本協同組合同盟(日協同盟)が設立されたのだった。
 戦後直後の食料難もあり、設立されたばかりの日協同盟には、生協を作りたいという相談が殺到し、その対応に忙殺されたという。そして、2年後には全国で6,500組合、300万人の組合員を擁するまでに発展したのである。
 ところが、日協同盟を支える資金は全く足りず、半年で8万円もの赤字を出してしまう。その資金繰りのため、賀川会長が長崎県の佐世保海軍工廠の共済会(財団法人共済協会)から100万円を借り受け、提供したのであった。今回発見した契約書原本の一つは、その金銭貸借契約書で、「昭和二十二年以降毎年二十万円を弁済、二十六年までに完済する。利息年五分」の条件が記され、昭和20年12月19日付で賀川が署名している。残されていたもう一つの契約書の原本は、昭和21年2月8日、産業報国会精算人柏原委員長と日協同盟賀川会長との間で結ばれた産業報国会財産の「無償譲渡契約書」であった。
 では、賀川がなぜ、100万円もの大金を借りることができたのであろうか。また、なぜ日協同盟が産業報国会の財産をただで譲り受けることができたのであろうか。そこには、大正時代から協同組合運動にかけてきた賀川を信頼する広範な人々との関係性があったからだった。以下次号(2018.10)

7 産業報国会の財産をただで生協に譲渡した中林貞男

 前号で述べた、賀川豊彦が日協同盟の資金繰りのために財団法人共済協会から借り受けた100万円は、日協同盟の慢性的財政難から、約定通り5年で完済できなかった。結局、日協同盟では返済できず、賀川の印税などで完済したのは、賀川が亡くなった1960(昭和35)年だったという。
 また、誕生したばかりの日協同盟に、産業報国会本部にあった机や備品、用紙など総計1,300点もの財産が無償譲渡されたいきさつも興味深い。
 戦争遂行のために、無理やり労使協力の組織として発足した大日本産業報国会は、敗戦直後の9月30日、GHQによって解散させられたが、残された財産の処理や職員の再就職のために、残務整理委員会が設けられた。その実務を直接担当する総務部長に、中林貞男が就いたのであった。
 中林は、報知新聞記者を経て大日本産業報国会参事となり、戦後は生協運動に入り、日本生協連専務理事、第4代会長を務めた人である。その幅広い人脈から労働金庫設立にあたって、労働省や大蔵省との折衝に多大な貢献を果たし、労働金庫協会事務局長も兼任した時期がある。さらに、昭和27年に設立された東京労金の初代副理事長にも就任している。実は、労働金庫設立の影の立役者でもあったのだ。
 さて、中林は「官製の産業報国会といえども、建前上は労使が協力して設立したものである以上、残余財産の半分はこれから生まれる労働者の民主的運動に提供すべきだ」と主張、政府やGHQの了解も取り付けたのである。しかし、当時はまだ労働組合の全国組織が結成されていなかったので、同じく労働者の組織であるという理由を付けて、日協同盟に無償譲渡したのであった。それが証拠に、賀川豊彦が署名している譲渡契約書には「将来労働組合ノ全国組織ガ結成セラレタル時ハ…中央労働委員会ノ裁定二依リ半バ二下ラザル部分ヲ之二無償譲渡ス」と記されており、本来財産を譲り受けるべき当事者は労働組合であることをわざわざ明記している。ただ、半年後には、労働組合の全国組織である総同盟や産別会議が結成されたのだが、譲渡契約書通り譲渡財産の半分が労働組合に渡された形跡は見当たらない。この項続く(2018.11)

8 埼玉労金の本店は産業報国会の会館だった

 産業報国会本部の例にならうかのように、日協同盟東京支部にも東京産業報国会から机、椅子、金庫など1万円相当の財産が無償譲渡された。これらの産業報国会からの譲渡物資の中には、当時割当制で入手困難な新聞用紙が含まれており、機関誌やパンフレット類の発行に大いに役立ったという。
 また、産業報国会の資産が直接労働組合に渡された事例も埼玉にある。戦前の最盛期には700もの鋳物工場が操業していたキューポラのある街、川口には産業報国会の会館があった。敗戦により産業報国会が解散させられたことで、その管理権はGHQに移されたが、その運営は結成されたばかりの埼玉金属労働組合の井堀繁雄に委ねられた。戦前からの労働運動家だった井堀は、戦後直後の1945(昭和20年)10月に早くも埼玉金属労働組合を立ち上げ、GHQに対して産報会館の運営を任せてほしいと折衝を始めている。GHQの埼玉県の責任者であったライアン中佐は、申し入れに来た井堀の率直な言動に好印象を持ったようで、「駐留軍管轄下にある川口駅前の旧産報会館の運営をゆだねる」と伝えてきたのであった。
 川口市本町四丁目一九二番地(住居表示の変更で現在は4-2-3)にあった産業報国会の川口会館は、昭和39年に建て替えられたが、戦後一貫して労働運動、協同組合運動の拠点となっており、現在は川口友愛センターとなっている。また井堀は、埼玉労金の初代理事長に就いているが、池田隼人大蔵大臣に出した信用協同組合埼玉労働金庫(埼玉労金)の内認可申請書(昭和25年12月7日付)に記された住所はその場所である。埼玉労金の本店は、何と、川口の元産業報国会会館の場所で開業したのであった。
 昭和27年4月にGHQによる日本本土の占領は終わったが、それ以降も井堀を中心とする労働組合が管理・運営を続けた。昭和30年には井堀を中心に設立された「埼玉県勤労者生活協同組合」もこの地でスタートし、今も営業を続けている。
 GHQの占領が終った後、会館の所有権がどのように扱われたのかは不明だが、ともあれ、産業報国会の財産が、戦後労働運動や生協運動に有効に使われていたことは記憶にとどめておきたいものだ。この項終り(2019.1)

高橋 均(たかはしひとし)

労働者福祉中央協議会(中央労福協) 講師団講師
明治大学労働教育メディア研究センター客員研究員
一般社団法人日本ワークルール検定協会副会長

1947年 京都市生まれ
1974年 読売旅行労働組合結成に参加。書記長、委員長
1980年 観光労連書記長、委員長(現サービス連合)
1996年 連合本部 組織調整局長
1998年 同 総合組織局長
2003年 同 副事務局長
2007年 労働者福祉中央協議会(中央労福協)事務局長
    現在 同講師団講師

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