明治・大正時代の協同組合・労働組合・社会主義
協同組合のテキストには、ロバート・オーエンの名前が最初に登場する。それは、産業革命後のイギリスで、失業・貧困にあえぐ労働者のために、工場経営者であったにもかかわらず労働組合や協同組合育成など社会改革のための運動・事業を始めたからである。オーエンは、無秩序な資本主義経済に対して、相互扶助を基盤にした経済社会をめざしたのであった。その思想は後に「空想的社会主義」といわれるようになるが、「ロッチデール公正開拓者組合」につながる協同組合の源流であり、それゆえ、協同組合の歴史にはオーエンが登場するのである。こうした協同組合の思想は早くも明治維新直後に日本にも知られるようになった。
そこで、この項では、明治時代に自主的な協同組合を作った人びとや社会主義者に対する弾圧の歴史、友愛会・総同盟に集った人々のエピソードをまとめてみた。
なお、2017年に強行採決で成立した「共謀罪」について、最後にそのルーツにも触れている。
- 明治時代の社会主義は協同組合と同義語だった?
- 大逆事件に連座した「森近運平」の自主的産業組合論
- 鈴木文治と平澤計七
- 労働者生協「共働社」生みの親、平澤計七、亀戸事件で虐殺される
- 鈴木文治と野坂参三~友愛会総同盟に集った人
- またぞろ共謀罪~そのルーツと労働組合の苦難
- 共謀罪のルーツを辿る
1 明治時代の社会主義は協同組合と同義語だった?
維新後の日本では、西南戦争の戦費調達のための大量の不換紙幣の発行とインフレ、その反動としての松方デフレ政策、その後の日清戦争などで国民の生活は大きな打撃を受け、富は資本を蓄積した一部の人たちに集約されていく。農民の多くは困窮して土地を手放し小作人化していった。産業革命後のイギリスと同じような社会状況が現出したのである。
そこで明治政府は、農民の困窮による社会不安を抑え農村経済の維持・充実をはかろうと、1900(明治33年)協同組合を先取りしてわが国最初の協同組合法(産業組合法)を制定する。そのため、農民が自主的・主体的に下から作りあげたものではなく、お上が作ったという意味で「官製」協同組合法といわれている。
いっぽう、貧富の差が拡大する無制約な経済体制を抑制しようと、徳富蘆花・新渡戸稲造や片山潜・幸徳秋水などの知識人も動きだす。「今日の競争制度を廃して社会を共力主義の上に再建せんとする」「日用品を廉価に売渡し、生活上の便益をはかる」「労働者自身が少数の資本を出して共同して営業を為す」「生産器械を共有し、生産管理人は公選で選ぶ。収入の分配は器械の費用・各人の生活の必要費、その余を労働に比例して分配する」などの主張である。当時それは「社会主義」政策と呼ばれた。私有財産の保護を前提にして社会の改良をめざす、官製ではない自主的な協同組合の原則そのものであった。明治時代の社会主義は、大正六年のロシア革命以降の社会主義とは異なり、実は協同組合と同義語だったのである。(2017.2)
2 大逆事件に連座した「森近運平」の自主的産業組合論
明治時代の社会主義は協同組合と同義語だった、と前回述べた。その社会主義者たちの中から日露戦争に反対するものが現れるようになると、明治政府は「反戦的言論は愛国心を抹殺し、皇室の批判に導く」として強硬な弾圧に乗り出す。「議会にお頼み申しても埒が明かぬ、労働者のことは労働者自身で運動せねばならぬ」と自主的な労働組合運動と自立した協同組合運動を主張していただけなのであったが、その結末は明治政府による明治天皇暗殺計画(大逆事件:明治43年)のでっち上げであった。明治政府は幸徳秋水をはじめとする社会主義者に対して「テロリスト」の烙印を押し、「おとなしい労働者に暴動を起こさせる」ものとして弾圧を加えたのである。
大逆事件で幸徳秋水とともに刑死した12名の中に、森近運平という人がいる。森近は岡山県の農事講習所を首席で卒業し、岡山県の職員となり農政を担当した。産業組合法制定時の法制局長官だった平田東助は、「産業組合法要義」を書いているが、森近運平もまた明治37年に「産業組合手引」を著わしている。序文には岡山県知事が推薦文を寄せているぐらいだから、県もあげて産業組合の普及に尽力していたと思われる。森近は「産業組合は隣保共救の実を挙ぐるの機関(であり)単に金銭上の団体ならしめば早晩土崩瓦解して却って禍根を百載に遺すに至らん」と、損得だけの団体になることをきつく諌めている。その指導精神は「組合の生命は協同にあり、協同の生命は推譲にあり、推譲の生命は至誠にある」と、農民自らの自主的・自治的な協同組合を建設することを説いていたのであった。
ところがそのわずか6年後、明治政府は、幸徳秋水を首謀者とする大逆事件をでっち上げ、森近運平が幸徳と親交があったことから計画に加担したとして連座させられてしまったのである。前年、森近は幸徳と別れ、郷里の岡山に帰り、自ら温室栽培を試み、ぶどう栽培にも精を出す篤農家であったにもかかわらずである。奇しくも、時の明治政府の治安対策の責任者は内務大臣平田東助であった。官製協同組合法(産業組合法)制定の立役者平田東助は、農民が主体となって下から自主的に協同組合を作ろうとした森近運平をテロリストとして容赦なく処断したのである。まだ30歳の若さであった。(2017.3)
3 鈴木文治と平澤計七
でっち上げの大逆事件で幸徳秋水・森近運平らが刑死させられたことで、労働運動は暗黒の時代を迎えたのだが、それでもわずか1年半後の1912(大正元)年8月、鈴木文治らは友愛会を創設する。イギリスでは、産業革命後の1799年に労働組合が禁止されたが、労働者はフレンドリー・ソサイティー=相互扶助団体であることを装って活動を続け、1871(明治4)年にようやくストライキ権を勝ち取ったのだった。その苦難の歴史を学んだ鈴木文治は、日本でも将来の労働組合建設に向け今は「隠忍自重」して相互扶助団体として力をつけようとしたのであった。これは、治安警察法によって労働運動が事実上禁止されていたからであり、表看板に組合員の相互扶助(協同組合)活動を掲げたのは、明治30年の労働組合期成会と同様であった。
しかし、第一次大戦時の好況とその後の大不況が、庶民の生活を直撃する。1918(大正7)年には米価の暴騰(約10倍)に庶民の怒りが爆発、いわゆる米騒動が各地で起きている。また、工場閉鎖・解雇・失業という労働事情を反映して、労働争議が頻発する。そして、パリ講和条約でILOが設立(大正8年)され結社の自由が認められたことやロシア革命の影響もあり、続々と労働組合が結成されていく。同時に、団結権・ストライキ権の保障だけでなく普通選挙、婦人参政権、部落解放、大学の自治権を求める声が日増しに大きくなっていったのである。大正デモクラシーと呼ばれる時代である。
友愛会は、鈴木文治や職工たたき上げの松岡駒吉・平澤計七らの指導により支部の結成が全国に広がり、多くの労働争議を解決させたことで、組合員の信頼を得ていくことになる。そして、あらたに東京帝国大学出身の麻生久、棚橋小虎など大学を卒業した知識人たちも加わり、大正八年、友愛会大日本労働総同盟友愛会(総同盟)と改称し、「隠忍自重」してきた鈴木文治らは、いよいよ本格的な労働運動を指導するようになったのである。しかし…。(2017.6)
4 労働者生協「共働社」生みの親、平澤計七、亀戸事件で虐殺される
そんな時期に総同盟内部である出来事が起きる。職工たたき上げで総同盟出版部長であった平澤計七を排斥する動きである。東大出身の知識人グループは、労働運動の主目的は「此の世を労働者階級の支配に帰せしめんとするに他ならない」と、それまでの資本家の温情主義に依拠した労資協調路線をとる鈴木文治会長を引退させ、総同盟を改革しようと動く。鈴木と一緒に活動してきた平澤計七は時期尚早だと反対したため、総同盟内部での主導権争いが起きたのであった。
結局、平澤計七は1920(大正9)年、総同盟を脱退して「純労働組合」を結成する。同時に、労資協調的な考えを持つ岡本利吉らと労働者生協である「共働社」を設立した。米・砂糖・炭・薪・仕事服・障子紙など労働者の生活に必要な物資を取扱い、剰余金の2割を労働運動の資金に当てるなど「ジミな労働運動」を展開したのであった。それでも平澤計七を追いやった総同盟内の知識人たちは、労資協調的な岡本利吉と行動を共にする平澤計七に懐疑的な目を向けていたし、他方、アナーキズムの影響を受けた左派の人々からは、労働者生協は「革命運動発展の妨げ」になるとして、共働社排斥運動まで起している。そんな批判を受けながら、翌大正10年3月に起きた日本鋳鋼所の争議や、11月の大島製鋼所争議では、共働社は迅速に物資の支援を行い、労働者生協の本領を発揮したのであった。
しかし、平澤計七は、大正12年9月1日の関東大震災の翌々日の夜、亀戸警察署内で軍隊の手によって虐殺されてしまう。労働者による自主的な労働者生協をつくり、争議支援を惜しまない平澤計七を、関東大震災直後の戒厳令下の混乱に乗じて一気に抹殺したのである。
総同盟の鈴木文治会長は、事件直後の「改造」11月号に、「労働運動擁護の立場に於て飽くまでも真相糾明を叫んで止まざるものである」と、平澤計七に対する深い友情に満ちた「亀戸事件の真相」という文章を寄せている。資本と厳しく対峙する「純労働組合」とそれを支援する自主的労働者生協「共働社」の指導者平澤計七は、権力にとって目障りな存在だったのである。(2017.7)
5 鈴木文治と野坂参三~友愛会総同盟に集った人々
戦後、共産党議長になった野坂参三が、1917(大正6)年、慶応大学卒業と同時に友愛会初の有給書記となったことはあまり知られていない。在学中から友愛会の賛助会員となり、鈴木文治や賀川豊彦との交流が始まると同時に、友愛会の機関誌「労働及産業」の編集を手伝うようになった。そして、大正7年には早くも友愛会出版部長に就いている。しかし、翌8年に英国へ留学することになったため、平澤計七(前号参照)が後任の出版部長になった。留学に際して鈴木文治は友愛会の「特派員」という資格を与え、7月8日、寄留していた兄の地元神戸での送別会には、賀川豊彦も参加して激励している。英国で野坂参三は英国共産党の影響を受け、共産党主催の集会に参加し演説するまでになる。そのことで英当局から国外退去を命じられ、仏・独・露を回って大正11年3月、2年半ぶりに帰国したのであった。
それでも帰国後の野坂参三を、鈴木文治は友愛会から名称を変えた総同盟の調査部長に起用している。また、大阪連合会会長で戦後民社党委員長となった西尾末廣とは、上京時に野坂参三の家に泊まっていくぐらい親しい関係にあった。大正12年6月、当時非合法だった日本共産党にかかわったとして検挙された時でも、総同盟主事の松岡駒吉は「総同盟は共産主義、組合主義、無政府主義、何でござれ思想は自由であるから、別に組合員に制限はない」と擁護している。こうした関係は、大正14年の総同盟第一次分裂の時まで続いた。
その後、野坂参三は第二次世界大戦が終わるまで、ソ連・中国で過ごすことになる。
鈴木文治は、戦後初の衆議院選挙期間中の1946(昭和21)年3月12日に急逝した。仙台で営まれた葬儀には、帰国したばかりの共産党の野坂参三も駆けつけ、弔辞を読んだことが記録に残されている。思想的に袂を別ったとはいえ「彼が友愛会をつくったことの歴史的な意義を、かつても、今も変わりなく評価している」と自著に書き残している。
大正年間の友愛会総同盟には、実に様々な考えを持つ人々が集い、激しい議論を繰り広げながら労働運動を牽引していた事実を、忘れないようにしたいものだ。(2017.8)
6 またぞろ共謀罪~そのルーツと労働組合の苦難
小泉政権で三度廃案になった「共謀罪」が名前を変えてまた今国会に上程された。
2006年5月9日、「共謀罪」審議中の衆議院法務委員会で、筆者は連合を代表して参考人として意見を述べる機会があった。民主党推薦でもう一人、評論家の櫻井よしこ氏も「心の問題にまで踏み込んでいく危険性はないのか」「導入してしまった後でどこまで拡大するのか…過去の事例を見れば…この会場にいるだれも責任を持つことはできない」と、反対の意見を述べていた。
筆者は、「労働組合の活動が犯罪とされる危険性」と自首すれば罪が免除される「自首減免規定」に絞って見解を述べた。正当な組合活動が、過去に強要罪や威力業務妨害罪で訴追される事例が起きている例をあげながら、法律が成立してしまうと、捜査当局の恣意的な判断が優先されるおそれがあること。また、共謀罪における「自首減免規定」は、おのれの保身のための密告を奨励することにつながりかねない。告げ口・密告は日本では軽蔑した響きを伴った言葉として受け止められており、日本人の道徳観に反するものだと、法案に反対したのである。
そもそも、日本の刑法は犯罪を実行した者(既遂)を罰するのが大原則である。もちろん、実行しようとしたが遂げなかった(未遂)ことやきわめて重大な犯罪に限っては例外的に準備行為(予備)、例えば、殺人の目的で包丁を買った場合も処罰の対象になる。一方で刑法には「自首」すれば刑を減軽する規定がある。しかしこの自首は、「私」が罪を犯し、「私」が自首する場合だ。ところが、共謀罪は二人以上で犯罪を準備したことを罪に問う法律であり、そこでも自首すれば罪が免除されるとなると、他人に罪を押し付けて自分だけ罪を逃れようとする輩が現れないとも限らないし、赤の他人に濡れ衣を着せることも可能になる。
今回の法案はテロ対策としての治安維持を装っているが、明治時代から戦前までの日本は、「治安維持」を大義名分に労働運動や社会運動が抑圧されてきた歴史でもあった。共謀罪が国会審議にかけられている今、その抑圧の歴史をふり返ってみようと思う。労働運動が窒息させられないために。以下次号(2017.3)
7 共謀罪のルーツを辿る
1900(明治33)年、わが国最初の協同組合法である「産業組合法」が誕生したが、同時に労働運動や小作争議を取り締まる「治安警察法」も制定された。「飴とムチ」の使い分けだ。明治憲法でも結社の自由は認められていたにもかかわらず、治安警察法は、日清戦争後の疲弊した農村の小作人や労働者の結社を事実上禁止する法律であった。「他人に対して暴行・脅迫・・・誘惑・煽動することを得ず(第17条)」、労働組合を結成して使用者と交渉すること、小作人たちが地主と交渉することは暴行・脅迫にあたり、ストライキを指導すれば誘惑・煽動したと解されたのであった。
労働組合の強い反対で1926(大正15)年にその条文は削除されたが、同時に争議行為を封じ込める目的で「暴力行為等処罰に関する法律」が制定され、「団体若は多衆の威力を示し・・・面会を強請・強談・威迫の行為」は相変わらず禁止されたままで、警察が違反だと見做すと懲役刑が待っていたのである。この法律は現在も有効で、暴力団の強要・脅迫の取り締まりに重点が置かれているが、学生運動にも適用された事例がある。
いっぽう、大正デモクラシーで労働運動や社会運動が昂揚し、ロシア革命の影響で共産主義の普及を恐れた政府は、関東大震災に乗じて勅令403号を発し「安寧秩序を紊乱する」と判断すれば、あらゆる団体や個人を摘発できるようにした。その集大成が大正14年の「治安維持法」だった。「国体を変革、私有財産を否認する結社」は、結社しただけでなく協議に加わったことも罪に問われることになった。1928(昭和3)年には最高刑が死刑となり、昭和16年には、「結社の組織を準備したる者」、つまり心の中で思っただけでも死刑の対象に広げられたのである。治安維持法の解釈は警察の恣意的な判断で拡大され、マスコミ・文化人、宗教家まで次々に検挙されたのであった。創価学会の創立者牧口常三郎は、そのために獄死している。
このように、「共謀罪」のルーツは、労働運動や社会運動を抑圧した治安警察法や治安維持法にある。いったん成立すると、無限定に広がる危険性は、戦前の歴史が物語っている。あやまちを繰り返してはならない。(2017.4)
高橋 均(たかはしひとし)
労働者福祉中央協議会(中央労福協) 講師団講師
明治大学労働教育メディア研究センター客員研究員
一般社団法人日本ワークルール検定協会副会長
1947年 京都市生まれ
1974年 読売旅行労働組合結成に参加。書記長、委員長
1980年 観光労連書記長、委員長(現サービス連合)
1996年 連合本部 組織調整局長
1998年 同 総合組織局長
2003年 同 副事務局長
2007年 労働者福祉中央協議会(中央労福協)事務局長
現在 同講師団講師