ヨーロッパとは異なる道筋をたどった日本の協同組合
世界の協同組合は、1844年イギリスのロッチデール公正先駆者組合に始まるといわれる。しかし、それがある日突然誕生したわけではない。イギリスではそれ以前から地域におけるさまざまな相互扶助の実践や挫折があり、それらを土台にして協同組合が発展してきたのであった。日本でも、明治初頭にヨーロッパの協同組合運動が翻訳・紹介されるはるか前から、今日でいう共済や信用組合、農協的な相互扶助の営みや挫折があった。ここでは、ヨーロッパの協同組合思想の影響を受けずに独自の道筋をたどった日本の共助(協同組合)のしくみを三つ紹介する。
1 「友子制度」~共済の源流
まずは、共済制度の源流ともいえる「友子制度」から始めたい。
2007年7月にユネスコの世界文化遺産に登録された島根県にある石見銀山での銀の採掘は戦国時代にさかのぼる。最盛期には堀子と呼ばれる鉱夫たちを含め20万人もの人びとが生活していたという。徳川時代や明治の初期は、鉱夫たちの団結は「徒党を組む」として認められなかったにもかかわらず、鉱石を採掘し、銀を取出し精錬する一連の労働に従事する労働者は、相互扶助のしくみでもある「友子制度」を作り上げた。友子は、もともと徳川時代の鉱山における親方層を含む鉱夫の同職組合として形成され、徒弟制度に基づく親分子分の形態をとりつつ、鉱山業における熟練労働力の養成、鉱夫の移動の保障と労働力の供給調整、構成員の相互扶助、鉱山内の生活・労働秩序の自治的営みなど多様な機能を果たしてきたものであった。
その重要な役割の一つが相互扶助の機能である。具体的には、事故や病気で働けなくなった労働者に対して米・味噌・薬を、またその子供には養育米を支給するという助け合いの制度であった。友子制度は江戸、明治期を通じて全国の鉱山や炭鉱にも広がり、炭鉱の中には昭和40年代まで続いていたことが、法政大学の村串仁三郎名誉教授の研究や記録映画に残されている。そこに日本の共済制度、協同組合の源流を見ることができるのである。(2016.4)
2 大原幽学の「先祖株組合」~農協の源流
大原幽学(1797~1858)を知る人は少ないが、千葉県を代表する農村復興の指導者といわれ、平成8年には旭市に「大原幽学記念館」が建設されている。江戸末期、幽学は長谷部村(旭市)で世界最初の農業協同組合ともいわれる「先祖株組合」を結成したのであった。
天明・天保の大飢饉以降、農地を手放し没落する農民が続出し、関東の農村は荒廃した。長谷部村に移り住んだ幽学は、農民の協同の力で先祖伝来の農地を守り、お互い没落を防ぐしくみを考案した。それが先祖株組合である。具体的には、各農家が先祖から受け継いだ農地のうち五両に相当する耕地(7畝)を出資し、そこから生まれる利益を無期限に積立てる制度である。運営については合議で選ばれた世話人が行い、万一破産するものが出た時はそれまで積み立てた分の半分を与えて家名相続させるという内容であった。また、幽学は各戸の農地を合理的に交換整理し、農業技術を指導したほか、今日の生協にあたる共同一括購入活動や村民教育なども行い、平等な社会と人づくりに尽力したのである。共同購入した品物は、農具・肥料・種子など農業に必要なもののほか、下駄・茶碗・手拭・櫛・鏡などの生活用品から薬にまで及んでいる。こうした諸活動は現在の農業協同組合のそれと通底しており、それゆえ先祖株組合は農協の源流だといわれている。その結果、荒廃していた村は領主から表彰されるほど復興を遂げたという。
にもかかわらず、その名声が周辺の農村にまで広く及ぶようになると、一転幕府は弾圧に乗り出す。幽学が戸籍上の手続きなしに長谷部村に居住したこと、先祖株普及のための大規模な教導所を建設したこと、農民が村を超えて活動したことなどを理由に、先祖株組合の解散・教導所の解体を命ぜられてしまう。そのため、幽学は失意のうちに自害により62歳の生涯を閉じなければならなかった。
農民が自分たちの力だけで耕地を整理し、先祖株組合を結成する自治的な活動や組織は、徳川幕府の目には領主の権限を侵す所業、謀反の兆しと映ったのである。(2016.5)
3 二宮尊徳の報徳五常講~信用金庫・労働金庫の源流
幕末期に小田原で生まれた二宮尊徳(1787~1856)は、「幼少時、父母を失い・・困窮致し・・今日を安楽に暮したい・・私欲身勝手一途」に働き、30歳の頃には手放していた土地を買戻し、生家を立て直すことに成功した。
お金の大切さを身をもって体験した尊徳は、自戒を込めてその後、無利子でお金を貸し付ける「報徳五常講」と呼ばれる独自の信用事業を作り上げ、疲弊する農村を救ったのであった。
その原理は三つ。一つは「無利子」貸し付け、二つ目は「年賦返済」、三つ目は元金完済後もう一年「お礼金(報徳冥加金という)」を支払い。その冥加金を新たな無利子貸し付けに回すことで、相互扶助の好循環を生じさせる。五常講にはその根底に助けある協同組合の思想が貫かれているといえよう。
明治24年信用組合法を国会に上程した明治政府も、五常講のことを「徳を以て特に報いる精神からでたもので殆ど信用組合の制度と異ならぬもの」「無利子と称するが、償却を完結した後謝恩金をして年賦返済一か年分の額を出すので、実質上利子を払うと同一の結果を生ずる」と、その精神を受け継いでいることを述べている。事実、法案策定に当たって政府は、尊徳の高弟に教えを乞うたことが記録に残されている。
この法案は廃案になったものの、これをきっかけに各地で誕生した任意の信用組合は144を数えた。1900(明治33)年、ようやく日本最初の協同組合法である産業組合法で信用組合に法的根拠が与えられることになった。そしてそれが今日の信用金庫や労働金庫へとつながっているわけで、協同組織金融のルーツは、実に二宮尊徳の報徳五常講に遡ることができるのである。
「経済なき道徳は戯言であるが、道徳なき経済は犯罪である」。尊徳は幼年期の経験から、お金の裏付けのない理想論は役に立たないが、反対に儲けることだけを追い求めるのは人倫にもとると喝破する超現実主義者であった。連帯の理念を見失わず、それでいて現実的に事業を遂行させなければならない協同組織金融の核心を、何と200年も前に言い当てているのである。(2016.6)
高橋 均(たかはしひとし)
労働者福祉中央協議会(中央労福協) 講師団講師
明治大学労働教育メディア研究センター客員研究員
一般社団法人日本ワークルール検定協会副会長
1947年 京都市生まれ
1974年 読売旅行労働組合結成に参加。書記長、委員長
1980年 観光労連書記長、委員長(現サービス連合)
1996年 連合本部 組織調整局長
1998年 同 総合組織局長
2003年 同 副事務局長
2007年 労働者福祉中央協議会(中央労福協)事務局長
現在 同講師団講師