第6回(191号/7月号)最終回
10年間でやりたかったこと、できなかったこと
私は2010年3月に中央労働金庫から埼玉労福協に出向となり、事務局長になりました。当時、埼玉労福協は特例民法法人であり、一般社団法人への移行が待ったなしの課題でした。それが私の最初の仕事でした。労福協の役割を明確にするという私の思いは「労福協は誰のために何をする団体なのか?」という疑問に変わりました。そして埼玉労福協は連合埼玉(労働組合)とどう違うのか?という疑問も出てきました。良い意味で役割分担と協力をすすめたいと思ったからです。
● 労福協は、連合埼玉と事業団体による連携組織
埼玉では「労福協と連合は表裏一体」と言われていましたが、本当にそうなのだろうか?それなら労福協は不要なのではないか?とも考えました。その答えが、連合はメンバーシップ団体で活動は「縦(産別)」の流れ、労福協は連合や事業団体が中心ではあるものの、連合未加盟労組、非加盟団体(NPOや地域活動団体)も参加できる幅広い「横(地域)」活動の組織と考えました。その意味では、表裏一体ではなく車の両輪として整理する・・・こちらの方が胸にすとんと落ちました。 私にとって理想のモデルは静岡県労福協でした。あくまで地域を基盤に労働金庫や労働組合、NPOや地域団体が一緒に事業を行う、最初から最後まで一緒に活動できるのが労福協ではないかと思いました。まことに僭越ではありますが尊敬する先輩は神奈川県労福協でした。その距離を少しでも縮めたいという思いで頑張った10年間でした。さらに長野県労連もメンバーに加えていることや地域労福協の活動が素晴らしい長野県労福協の懐の深さを学びたいとも思っていました。
● 地域労福協こそ労福協の神髄
わかりきったこと、基本中の基本なので議論の余地はないと思うのですが、埼玉労福協の活動は連合埼玉の地域協議会、こくみん共済・中央労働金庫の支店や支所に支えられた地域連携、地域ネットワークだと思います。
そのために地域労福協代表者会議を年6回開催し、意見を交わし様々な活動に取り組みました。「永田さん、そんなに求められても地域労福協は地協の活動もあるし、産別の活動、単組の活動もある。」と厳しいお叱りを受けたこともありました。
しかし、県内12の地域労福協は、福祉セミナーの開催、全市町村への政策要請、避難者支援等の活動に取り組んできました。一緒に活動する中で信頼感や連帯感が生まれたように思います。地域労福協の皆さんに感謝しつつ、地域労福協が埼玉労福協の事業を推進していることを述べておきたいと思います。
● 問題提起
私の心を過りながら、埼玉労福協では取り組めなかったことがあります。「活動に関わった役員は管理職になっても地域の活動に参加できる」地域労福協にできないかという提案です。すでにそんなことはやっているよ!という労福協もあるかと思います。しかし、地域活動の世代を超えた持続、人材の確保、労福協らしさなどを考えると、過去の肩書や企業の枠を超えた新しい地域連携が必要になると考えています。
地域労福協の会議でこの話をしたときには、「(うるさい)先輩が残っていると世代交代ができない」との意見も出されました。でも、地域では先輩がうるさいのは当たり前、と割り切って地域運動をつくることはできないのでしょうか・・・
2018年ときがわキャンプの写真
〔おまけ こんなことに興味がある方だけに〕
埼玉県には第2の賀川豊彦がいました!
手前味噌ですが、私たち埼玉の労福協関係者が密かに「西の賀川豊彦、東の井堀繁雄」と自負する井堀繁雄というリーダーの存在がありました。
賀川豊彦と言えば農民運動、労働運動、そして労働者福祉運動の「父」ですが、埼玉県にも賀川豊彦の薫陶をうけた活動家がいました。名前は井堀繁雄と言い、埼玉労働金庫の前身である埼玉県勤労信用組合の理事長で最初の店舗は井堀氏の事務所だったといいます。埼玉県ではこの類まれな労働運動、社会運動家と労働5団体が埼玉の労働者福祉運動を開花させたと思います。
避難者支援集会で挨拶する永田氏
永田 信雄 さん
一般社団法人 埼玉県労働者福祉協議会・前専務理事
1976年 9月
埼玉労働金庫(現中央労働金庫)入庫
1983年10月
埼玉労働金庫労働組合
(現中央労働金庫労働組合)書記長
2001年 6月
中央労働金庫労働組合書記長
2010年 3月
(特)埼玉県労働者福祉協議会に出向し事務局長となる。
2015年 3月
中央労働金庫を定年退職し再雇用嘱託
職員として埼玉労福協出向
2015年 5月
一般社団法人埼玉県労働者福祉協議会
専務理事に就任
2017年 7月
NPO法人フードバンク埼玉理事に就任
2021年 5月
一般社団法人埼玉県労働者福祉協議会
専務理事を退任
2022年 4月
避難者支援組織「さいたま共にあゆむ会」設立、事務局長となる。