第1回(186号/2月号)
はじめに
私は2010年3月から2021年5月までの12年間、埼玉労福協の仕事に携わらせて頂きました。その中で、東部ブロック労福協、全国の労福協の皆さんとの交流、意見交換が私の埼玉労福協活動の指針となり活動の具現化に繋がりました。特に、「年越し派遣村」から始まった反貧困ネットワークとの連携、フードバンク研究会、奨学金問題の取組みがあります。皆様への感謝を込めて私が経験し取り組んだことが何らかの糧となれば幸いです。
● 埼玉労金の設立は3番目なのに埼玉労福協・埼玉労済は46番目の「理由」
1972年、2月に埼玉労福協設立委員会が設置され、その年の1972年10月30日に埼玉労福協が設立されました。
一般的には、最初に労福協が設立され、労福協が核となって労働金庫を作り、労済(こくみん共済)を作り、会館を作るという順番ですが、埼玉は順番が違いました。
そのころ、埼玉県に労働界の分布は、県評2:同盟1という状況で、それに中立労連(電気労連)等を加えた5団体の組合員数が労働金庫の理事数に反映していました。労福協の理念である「福祉はひとつ」が労働金庫の理事会で体現され、労働者福祉運動も議論されていました。
埼玉労福協設立総会=1972年
埼玉労福協設立のニュースは「埼玉労働金庫だより(1972年12月)」が最初に報じました。埼玉労福協だより1号(創刊号)で埼玉労福協設立が報じられたのは翌年3月でした。
● 30年遅れの埼玉労福協の役割は・・・
埼玉労福協は、労働5団体と福祉事業5団体により設立されました。その背景には、野党共闘による「畑和革新知事」の誕生もありました。「福祉は一つ」の理念が「畑和革新知事」を作り、埼玉労福協は「畑革新県政」とともに歩んだとも言われています。
埼玉労福協の最初の仕事は、1973年3月に「労働者福祉講座」を開催したことでした。この「労働者福祉講座」は春闘前の学習会として毎年開催され、畑和埼玉県知事が出席しその年の抱負を述べました。それは2004年まで続きました。
埼玉労福協の二つ目の仕事(事業)は、「(財)勤労者福祉センター」を設立し、開業することでした。設立総会において「労働者福祉センターの建設」を決議した埼玉労福協は、埼玉県や関係団体との協議をすすめ、7年後の1979年9月には結婚式場や宿泊施設を持つ勤労者福祉センター(ときわ会館)を開業させました。
● 連合時代の新生労福協の課題
1989年12月16日、「連合埼玉」が結成されると、埼玉労福協は「連合埼玉+労働者福祉事業団体」による新生労福協として再スタートしました。参加した事業団体は、埼玉労働金庫、全労済埼玉県本部、埼玉県労働者信用基金協会、埼玉県勤労者福祉センター、埼玉県勤労者生活協同組合、㈱埼玉勤労者サービスの6団体でした。
しかし、それまで一緒に活動してきた地区労との関係整理には長い時間が掛かりました。2022年12月の現在でも熊谷市には連合熊谷地協が参加する地域労福協はありません。
労福協の地域組織(地域労福協)は、「連合地協と表裏一体」と位置付けられ、再編されたのですが、連合埼玉と連合地協の関係は「縦」、地域労福協と埼玉労福協は「横の連携団体」となり、「縦」と「横」が協力・連携して課題に取り組む体制を作りました。
● 地域労福協は「22地域」から12地域労福協体制に!!
連合埼玉発足時、連合地協の数は22、地域労福協も22でした。その後、浦和市・大宮市・与野市・岩槻市の4市が合併してさいたま市地域労福協になるなどして、現在は12地域労福協体制で運営されています。
地域労福協は、自立性を高め事業団体との連携強化、連合地協事務局の負担軽減を目的に、連合地協事務局長との兼務はしない、財政の分離を原則として運営しています。
永田 信雄 さん
一般社団法人 埼玉県労働者福祉協議会・前専務理事
1976年 9月
埼玉労働金庫(現中央労働金庫)入庫
1983年10月
埼玉労働金庫労働組合
(現中央労働金庫労働組合)書記長
2001年 6月
中央労働金庫労働組合書記長
2010年 3月
(特)埼玉県労働者福祉協議会に出向し事務局長となる。
2015年 3月
中央労働金庫を定年退職し再雇用嘱託
職員として埼玉労福協出向
2015年 5月
一般社団法人埼玉県労働者福祉協議会
専務理事に就任
2017年 7月
NPO法人フードバンク埼玉理事に就任
2021年 5月
一般社団法人埼玉県労働者福祉協議会
専務理事を退任
2022年 4月
避難者支援組織「さいたま共にあゆむ会」設立、事務局長となる。